吉永小百合が経験した母の在宅介護【母親の経歴・性格】(徹子の部屋)

テレビ

映画「いのちの停車場」(2021年5月21日)に出演される吉永小百合さん。本作では救急救命医を経て在宅医療と向き合う医師・白石咲和子役を演じられます。

自身もお母様の在宅介護の経験があるとのことですが、大女優・吉永小百合さんを育てたお母様とはどんな方だったのでしょうか?

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吉永小百合 母親の経歴・性格

経歴

【生い立ち】

吉永小百合さんのお母様の名前は吉永和枝さんといいます。

兄弟は7人で長女(上から2番目)でした。

大正中期、和枝さんは3歳の時になぜか1人だけ、祖父が住職を務める兵庫県播磨の山寺に預けられています。(山寺は母方の祖父母の家でした。)

なぜ1人だけだったのでしょうか?何か理由があったのだと思いますが、不思議ですね。

和枝さんのお父様・川田正之さんは一家を連れて東京に移り住み、事業を起こして大成功しています。

千駄ヶ谷駅近くには洋館づくりの大豪邸を新築し、女中や運転手までも一緒に住んでいたそうです。

和枝さんは6歳のとき、山寺から東京の大豪邸に呼び戻されますが、自由きままに育ってきた兄弟達と馴染めなかったそうです。

詳細は不明ですが吉永小百合さんが女優として活躍していた時には、実家の川田家とは絶縁状態だったそうです。

【結婚後】

吉永和枝さんは吉永小百合さんの父となる、鹿児島県出身で東大法学部卒の吉永芳之さんと結婚します。

その後吉永小百合さんは1945年3月13日に次女として東京で生まれます。

当時母・和枝さんは30歳、父・芳之さんは34歳で、戦時下の統制団体・情報局に勤務し紙の割当部門の経理を担当していたそうです。

和枝さんは作家志望であったため、短歌を読むことも多かったらしく、小百合さんが生まれた時には「戦いのさなかに生(あ)れて小百合の崇き気負いを持ちて生き抜け」という歌を小百合さんに送っています。

父・芳之さんほ終戦後に出版社シネ・ロマンス社」を立ち上げ、有名映画評論家の双葉十三郎さんや飯島正さんと映画ファン雑誌「シネ・ロマンス」を刊行しましたが事業に失敗。

そのため母・和枝さんがピアノ教師として働き家族を支えていました

和枝さんは一家を支えながらも歌を詠んだり、新聞・ラジオに投書することは辞めずに続けていました。

そして1976年に書き溜めていた手記を集め、「母だから女だから」(立風書房)という単行本を発刊

和枝さんの生い立ちから、1973年に親の反対を押し切って結婚した吉永小百合さんへの想いが綴られているようです。

吉永小百合さんは1973年8月3日に当時フジテレビのディレクターだった岡田太郎さんと挙式しています。

ご両親はバツイチで吉永小百合さんと15歳差の岡田太郎さんとの結婚をまとめませんでした。

吉永小百合さんはそれでも結婚されたわけですが、ご両親は式に参列されませんでした。

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性格

吉永小百合さんの母・和枝さんは、生い立ちから想像するにかなり逞しい方だったと思われます。

兄弟達との生活に「馴染めなかった」とされているので、預けられた山寺の祖父母の元では厳しく育ったのかもしれません。

気ままな兄弟達とは正反対の生活を送っていたのでしょう。

戦時中に疎開せず東京で吉永小百合さんを出産したことにも驚きです。

ピアノ教師として一家を支えていたことからも、相当肝が据わった方だったのではないでしょうか。

色々と苦労をされてきた母・和枝さんが吉永小百合さんの結婚に反対した理由も理解できます。

吉永小百合 母親の介護

86歳で乳がん発覚した吉永小百合さんの母・和江さんですが、一切治療を受け入れなかったそうです。

「いろいろ(治療の)プランを出して、母が納得するよう持っていこうとしたけれど、何を言ってもダメで。自分の友達が手術をしても良くならなかったので『一切やらない』と。本当に何もせず、4年間もったんですよ」

https://news.yahoo.co.jp/articles/8a0df07d7f71022667533ba5c065098130195170

治療を受けなかった理由には、亡くなった和枝さんの夫・芳之さん(1989年死去、享年79)もありました。

「そのときは、みんな心臓発作と思って。ステーキが原因と気づいていたら助かったかもしれない。父は救急車で病院に行きましたが、脳に血がいかなくなり、呼吸も弱くなって。気管を切開して呼吸できる手立てをするかどうか、ドクターに聞かれて。あまりにつらいので私たちは、ここまでにした方がいいのではないか、とも思ったのですが」

「母親だけが『少しでも長く一緒にいたい』と。切開して呼吸できる方法を選択したんですね。母親はどんな状態であっても、生きていてほしいと願った。そうしてあげることができて良かった。そして母は自分が、がんになって治療を拒んだ理由に『早くお父さんのところに行きたいから』とも。それを聞いたとき、家族みんなで納得することができたんです」

https://news.yahoo.co.jp/articles/8a0df07d7f71022667533ba5c065098130195170

吉永小百合さんら家族はその意思を尊重して治療は一切行わず、訪問介護士にちょっとしたケアをしてもらっていた程度だったといいます。

乳がんが発覚しても家族と一緒に住むということもなく、亡くなる直前までずっと一人暮らしをされていたそうです。

4年後、90歳の誕生日を祝ったあと状態が悪化。がんが皮膚を突き破って出てきてしまい、その後体調が急激に悪くなり、最終的には訪問診療に来た先生から、このまま亡くなると診療履歴がないから警察沙汰になると言われ、母・和枝さんは入院することになりました。

 「4年たって90歳になって家族、親戚でパーティーのような食事会をして。そこでシャンソンを母が歌い、孫たちがギターを弾いて。でもその後、母はシリアスな状況に陥って。肺に水がたまったりしてつらかったと思う。近くのドクターに相談すると、このままでは(治療歴がなく)病気だったと確認できない。他界したときに警察ざたになると。何らかの形で医者に診てもらうべきだと助言されて。最後は入院に納得して病院で亡くなりました。でも初めから在宅医療の先生がいれば、状態は違っていたかもしれませんね」

https://news.yahoo.co.jp/articles/8a0df07d7f71022667533ba5c065098130195170

母・和枝さん迷惑をかけないようにと最後は病院に入り、入ってから2週間後の亡くなりました。(2005年・享年90歳)

吉永小百合さんたち三姉妹は、入院の1ヶ月前に交代で泊まり込みで一緒に過ごしたそうです。

母・和枝さんは亡くなる直前までずっと一人暮らしをしていて、訪問介護士が定期的にケアにけてくれていたのことなので、吉永小百合さんたち姉妹の本格的な在宅介護は母・和枝さんの容態が悪くなってからだったのかもしれませんね。

もちろんガンが発覚してからずっと気にかけていらっしゃったと思います。

大変なこともあったと思いますが、吉永小百合さんも、母・和枝さんも最後はとても良い形で見送り、見送られたのではないでしょうか。

まとめ

吉永小百合さんの母・和枝さんについてご紹介しました。

上流階級の家庭に生まれながらも、幼少期は家族と馴染めず、また結婚後も夫・芳之さんの事業失敗によりピアノ教師として家庭を支えていました。

吉永小百合さんもまた、極貧生活の中で11歳の時にラジオドラマ「赤銅鈴之助」のヒロイン役を務めることになり収入の一助を担っていたようです。

一家はかなり苦労をされたようですが、吉永小百合さんの今があるのは辛い時期があってのことだったのかもしれませんね。

母・和枝さんは乳がん宣告されても治療を受けず、さらには自立した生活を送っていたことからも、とても気丈夫な方だったようです。

作家を夢見て、短歌を読むことが好きだったり、亡くなった旦那さんの元へ早く行きたいと語っていたことからロマンチストでもあったのでしょう。

吉永小百合さんの本格的な在宅介護の期間は1ヶ月ほどで、三姉妹で力を合わせて母・和枝さんのお世話をされていたようです。

吉永小百合さんは映画「いのちの停車場」(2021年5月21日)で主演を務められていますが、母・和枝さんの在宅介護の経験や、これまでの人生経験が活かされていると思われます。

吉永小百合さんのこれからの活躍にも期待したいです。

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